2011年7月

大熊猫

2011/07/25by でこボン

その日は、恒例の「1日乗車券バスの旅」の予定でしたが、「パンダ見たいんだ」との息子の一声で、バスを乗り継ぎ、上野動物園へ。(それでも移動はバス)

入園ゲートをくぐってすぐのところ。15分ほど並んで、会えました。リーリーとシンシン。予想通り(?)竹を食べてました。あんまり動かないですね。まあ、あの体だからしょうがないか。あのモコモコした、バランスの悪そうな体つきが魅力なのかもしれませんね。息子は「かわいいね。かわいいね。」と大喜び。

「写真、1〜2枚撮ったら移動してくださ〜い」と係員の声に急かされ、パンダ舎を後にしました。
閉園間際には、もう一度見る事ができました。
午後遅くだと、あまり並ばなくてもよさそうですよ。
 
 
 
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ブラームス「交響曲第一番」

2011/07/13by 鼻メガネ

 暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか
 
今日は、ブラームスのお話です。
クラシックの作曲家で誰が好き?と聞かれたら、僕はブラームスという作曲家をまず挙げます。
ブラームスの曲の中でも特に好きなのはクラリネット五重奏です。が、今日は交響曲第一番のお話をしたいと思います。
この曲はのだめカンタービレで取り上げられた事により、一般的にも親しまれるようになりましたが、この交響曲が発表されるまでの経緯がとても興味深いので少しお話ししたいと思います。
ブラームスの交響曲第一番が初演されたのは彼が43歳のとき、最初のスケッチが書かれたから実に21年という長い時間をかけて書かれました。
その間にも室内楽やピアノ協奏曲など多くの作品を書き上げたのですが、交響曲の作曲にはとりわけ慎重だったようです。
一つの事を20年以上もの時間をかけて作り上げるという事は、なんと言えば良いのか…凄い事ですよね。
では、なぜ、これ程までに時間をかけ作曲されたのか?
それは、ベートーヴェンの交響曲第九番があったからと言えるそうです。
ベートーヴェンの最後の交響曲である【第九番】がブラームスにとってあまりにも素晴らしく、これ以上の音楽は誰にも書けない。という深い絶望と敬意があったのです。
ブラームスは「第九番がある限り、交響曲を作曲することは無意味だ」と言ってしまう程衝撃を受けたそうです。
そんな苦悩の中で書かれた交響曲第一番はベートーヴェンの「交響曲第十番」と言われるほど素晴らしいものとなり、現在でも演奏機会の多い有名な交響曲となったのです!
と、お話はこの辺で終わりますが、最後にブラームスの第一番をより深く楽しむためにお勧めしたい映画があるのでご紹介したいと思います!
 
§ 映画「敬愛なるベートーヴェン」§
なぜベートーヴェン!?と思われるかと思いますが、ブラームスに交響曲を書くうえでの葛藤を与える“きっかけ”となった「第九」について深く知れる良い映画だと思うので紹介しました。
物語は仮説に基づいて構成されているようですが、非常に丁寧に描かれているので、ベートーヴェンの良さをしっかりと実感できる作品だと思います。
この映画で「第九」初演のシーンがあるのですが、まさに圧巻!歓喜の歌に涙する事でしょう。
是非ご覧あれ!
きっと、映画を観てからのブラームスはひと味違って聴こえてくる筈です。
 
鼻メガネ
 
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高野文子『黄色い本』

2011/07/07by GX750

 

やはり煮付けですよ。秋から冬にかけてが旬だと言われているので、熱燗との相性は抜群です。ただ、いかんせん高価な高級魚というイメージがありますよね。あんなにおいしいのに、庶民がそう簡単に手を出せないのは残念です。深海魚なのであまり数が獲れないのでしょうか。いきなり何言ってるんだ?という感じですが、きんきです。いつも天気の話題から入っているので、今回はきんきの話から始めました。

さて、数がないといえば高野文子の漫画です(いろいろ強引)。あれほどの質を保つには、やはり寡作になってしまうのでしょうか。ただ、あまりにも密度が高いので何度読み返しても楽しめます。個人的に好きなのは『黄色い本』という単行本の表題作、小説好きにはたまらない世界が広がっています。

私は想像力が欠如しているためか、どうも昔から小説の登場人物というものをイメージすることができません。が、そのかわり活字そのものが強烈に目の前の世界に浸食してきます。重いものを読んでいると、日常生活と読んでいるものとの乖離がひどくなって「うわーっ、どこにいるんだ自分、今」となったりします。とはいえ今ではそれも少なくなりました、大人になったものです。『黄色い本』はそういうかつての活字体験が淡々と描かれているようで好きです。重くのしかかる言葉の数々が当たり前の日常に入り込む瞬間、その描き方は尋常ではありません。

確かフォークナーだったと思いますが、彼はひどい活字中毒者で電話帳から奥さんの買い物メモまで、家にあるものは何でも読んだそうですね。重度のアルコール中毒であり活字中毒でもあった彼がいったいどんな世界を見ていたのか、ものすごく興味深いです。過去と現在とが交錯する彼の描いた世界が、極めて現実的なものだったのではないか、そんなふうに思ってしまいますね。

GX750

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